覇権主義と国際協調

「太陽のプーチン」(世界の多極化の貫徹、反欧米、軍事動員)と「月のプーチン」(多極化の断念、親欧米、経済主導)とアレクサンドル・ドゥーギンは言うが、一極主義か多極主義か、というのは覇権主義のバリエーションにすぎない。「(世界/地域)覇権主義」か「国際協調」か、という対立軸は、力の論理にとらわれた彼の眼中にはないのである。

“プーチン氏の頭脳”が初めて語る「ロシア勝利か人類滅亡か」【2月10日(金) #報道1930 】|TBS NEWS DIG - YouTube

“プーチンの頭脳” 思想家ドゥーギン氏初めて語る…「ロシアの勝利か人類滅亡かの二択」【報道1930】 | TBS NEWS DIG (1ページ)

(文字起こし記事2/24追加)

“プーチンの頭脳”極右思想家ドゥーギン氏初めて語る 前編~「特別軍事作戦は失望からロシアの聖なる戦争になった」 | TBS NEWS DIG (1ページ)

“プーチンの頭脳”極右思想家ドゥーギン氏初めて語る 中編~プーチン氏の二面性「太陽のプーチンと月のプーチン」 | TBS NEWS DIG (1ページ)

“プーチンの頭脳”極右思想家ドゥーギン氏初めて語る 後編~「ロシアの勝利か人類滅亡かの二択」 | TBS NEWS DIG (1ページ)

※ 特別軍事作戦を支持している人びと(71%)は「ロシアは欧米文明の一部であるのか、独立した文明の一部であるのか?」という質問に対し後者を選ぶ人達であるという。

※ 「勝利か、滅亡か」は正確には次の表現。

「ロシアのあきらめない本質、客観的にも主観的にも、政治的、心理的、歴史的、地政学的な観点からしても止まることが出来ないと欧米が理解していれば、人類滅亡だけがロシアを止める唯一の手段であることを分かっていたはずです。」

「勝利すれば、多極世界が形成され平和もしくは停戦になる可能性があります。しかしどこかの段階で異常が発生すれば、人類は滅亡します。」

ドゥーギンは、あらゆる種類の制裁のもとにあってもロシアは前進を止めることはなく、かつ、通常兵器によってのみ勝利を収めるであろうと述べている。ロシア側からの核の先制使用はあり得ず、西欧側からの核攻撃への反撃としてしかロシアの核使用は絶対にないのだという。

※ なお、ドゥーギンの多極世界論はサミュエル・ハンチントンの議論(そのなかで日本は「孤立文明」とされている)に全面的に依拠している(後編)。

「「文明の衝突」の中に日本は独立した一極でした。にもかかわらず、日本では多極世界の考えは全く存在しません。日本の知識人でさえロシアの行動を理解していません。」

「独立した文明であるならば、このユニークなチャンスを活用してください。中国との関係において、同盟国である欧米諸国に従うだけでなく、自分のポテンシャルを発揮してください。しかし日本は全く動かないのは不思議です。」

「ハンティントンは日本を「独立した文明」として位置付けたのは時期尚早だったのかもしれません。これは一極集中世界と多極世界の戦いであるのをみんなが理解し、自分なりに適応し始めているが、日本は自分のことについて自分の頭で考えてみてはどうでしょうか?」

だが現実の政治家は、覇権主義だけではやっていけない。地域覇権一つを取っても力の論理だけではもたないし、国連を中心とする国際協調から抜け出し孤立するわけにもいかない。覇権主義に染まった政治家でさえ、否、覇権主義に振れた国だからこそ、バランスをとるために可能な限り多くの国の支持を取り付けようとする。ドゥーギンの言う多極主義もまた、イスラム諸国、アフリカ諸国、南米諸国、中国からの理解を前提としているところがあるし、ロシア政府も西側の著名人を利用して自身の立場への幅広い理解を取り付けようとしている。

ドゥーギンが認めるとおり、「特別軍事作戦」は初期段階で失敗に終わった。背水の陣ではあるだろう。しかし、ここからただちにフェーズを上げて、ロシアの実務的政治家が「西側覇権・資本・思想による『汚染』からのロシア文明の保護」を名目として「第三次大祖国戦争」なるものに突入することがありうるのだろうか。

狂信的多極主義者からすればプーチンは「月」(経済主義・国際協調主義)から「太陽」軍国主義・地域覇権主義)へと望ましい方向にシフトしたことになるのかもしれない。しかし後者の極にあまりにも振れたならばもはや政治家ではなくただの狂信家だ。悪名高い21年論文を見ても、プーチンは狂信家ではなくあくまでも「冷静」な実務的政治家に踏みとどまっている。戦況の悪化により、狂信家のロジック/レトリックに頼ることが多くなっているのは、単に彼が冷静さを失っている(=ロシア、ウクライナ双方の犠牲者およびコストを戦勝の見通しと比較考量できなくなっている)ことを示すだけのことであろう。

「太陽と月」の比喩はそれ自身、ヒントを与えてくれる。多極文明というハンチントン的ビジョンをロシア人にとっての福音として明るいイメージでとらえるのはいい。だが、「ロシアの勝利か、それとも世界の滅亡か」というディストピア的レトリック(妄想)の後半部分が意味するのは、実質的には「ロシアの敗北の核使用による阻止=ロシアの集団自殺への人類の巻き込み」である。これは「実務家」プーチンの選択肢としてはあり得ない。

ポイントとなるように思われるのは、パトリック・ハーラン氏が指摘しているように「第三次大祖国戦争というのはあまりに大げさで、ナポレオン(「第一次」)やヒトラー(「第二次」)のように西側がロシアを直接軍事的に侵略しているわけではなく、せいぜい、覇権・資本・思想上の『侵略』にすぎない」(一部意訳)という点である。つまり西側の脅威というのは経済レベル・思想レベルのものが中心で、政治・軍事レベルにおいてはいまだ実体の伴わない、象徴・イメージ(もしくは「空想」「妄想」)の段階にとどまる、ということである。NATOの東方拡大も含めてそう判断するのが妥当ではないか(「ハイブリッド戦争」の意味を考えるとやや微妙ではあるものの、直接の軍事力行使を欠いた、資本による『侵略』や情報戦のみの「ハイブリッド戦争」にフルサイズの軍事侵攻で対抗するのは飛躍も甚だしい)。

ここに、「特別軍事作戦」なのかそれとも「大祖国戦争」なのか、という問いを(ロシア・サイドから)あらためて検討する余地が生じる。「ロシアとウクライナの歴史的一体性」というのがプーチン21年論文の主題であった。これを実現するための武力行使が多極主義のもとでの局地紛争「にすぎない」ことは自明である。この場合、特別軍事作戦は多極主義を(チェチェングルジア、シリアといった)局地紛争(【舛添直言】周辺国への軍事介入で「常勝」のプーチン、西側は勝てないのか 「軍事的反攻」は第三次大戦を招く、「外交と制裁」でどう抑え込むか(1/6) | JBpress (ジェイビープレス) (ismedia.jp))への軍事介入によって実現しようとするものとなる。クリミアやドンバスの問題も、元来は同様の性格をもつはずのものだった。

「部分的動員」であって「総動員」ではない以上、武力行使はあくまでも「特別軍事作戦」の範疇に収まるが、欧米の強力な支援を受けたウクライナ側の粘り強い抵抗の下、今はもはや「後に引けない状況」となり、西側諸国からのウクライナへの戦車提供によってフェーズがさらに引き上げられている。当然ながら、「特別軍事作戦」が「全面戦争」(「大祖国戦争」)へと展開していく余地が拡大する。

だがここで、「ロシアは西側から軍事侵略を受けたのではなく、象徴的・イメージ的『侵略』を受けたにすぎない」という基本に立ち戻る必要がある。ここでは「大祖国戦争」へと発展させる際の「ロシアを西側の軍事侵略から守る」という大義名分は成り立たない。「多くの若者が西洋の拝金主義・個人主義・性的多様性に汚染されている」という理由から「大祖国戦争」へ向かうべきだ、というロジック/レトリックは、宗教関係者も含めて一部の狂信家には自然かもしれないが、実務的政治家がまともに取り合うはずのものではない。覇権主義ですら一つの価値観にすぎず、価値観をめぐる思想主導の戦争をまともに受け止める者はイデオロギーの亡者だけである(このイデオロギー亡者をここでは狂信家と呼ぶ)。

したがって、「特別軍事作戦」が失敗に終わり、「大祖国戦争」の大義名分が駆り出されつつあるという現在の瀬戸際状況において問われているのは実は、「プーチンはいまなお実務的政治家であり続けているのか、それとも(大義無き「大祖国戦争」へと突き進む)単なるイデオロギー亡者・狂信家に成り下がってしまったのか」ということなのである。