市民生活の維持は現在進行形の課題だ

内田樹氏による話題のインタビュー記事:

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「スラック(余裕・遊び)」(準備したが使用しなかった資源)を想定せず、「費用対効果」「ジャストインタイム」「在庫ゼロ」といった経済合理主義を医療や福祉に持ち込み、「医療資源の効率的な活用」「病床稼働率の向上」を医療の最優先課題だと誤って考えてきたこと、つまりパンデミックのような事態への危機管理が(東日本大震災を経験して10年も経ていないのに)できておらず、「五輪開催」と「防疫体制」のうち前者を不当に優先させてきたことが、日本政府の対応における(ここまでの)失敗の原因だと断じています。

しかしこれは、まだ取り戻せないわけではないでしょう。戦いはまだまだこれからです。

内田氏は、こうした(ここまでの)政府の対応の失敗を、政権の体質そのものの問題と結び付けています。政権に「呪術的」性質やネポティズムなど前近代的要素が見られるとの指摘には、報道等に基づけばそうかもしれないと思わせるものもあります。

また、「コロナ後」の体制を見越して、コロナ対応に際しての中国の成功事例、米国の失敗事例を背景に、「階層の二極化」を伴う「独裁政権」もやむなしとする意見が広く受け入れられ、ここに、日本の(ここまでの)失敗は「憲法」のせいだからというので「憲法改正」を、と改めて主張する論陣が合流して一大勢力が築かれるだろうから、これに対抗して「中産階級の再興と民主主義」を目指して野党勢力、言論人が結集すべきだ、とも主張されています。

見通しとしてあり得ない話ではないでしょう。しかし、今後の国際情勢において中国のプレゼンスがこれまで以上に上昇することは間違いないでしょうが、コロナ対応を「中国の成功」「米国の失敗」というふうに単純に図式化し、これを政治体制の「優劣」ないし「二者択一」の問題に切り詰めることは妥当でしょうか。むしろ、中国の初動の素早さを米国政府が学んでデモクラシーの意思決定のあり方を見直し、他方で、感染初期段階の情報隠ぺい・歪曲の疑念を受けて中国政府が(民主的な)情報公開の必要性を認識する、という可能性はないのでしょうか(ひとつの方向として、「民主主義の再構築」が考えられます;ゼミ卒業生「ガルブレイス」君の次の意見を参照;民主主義の再構築|ガルブレイス|note)。

中産階級の没落」を「民主主義の没落」とセットで防がなければならない、との意見であれば首肯できるものです。しかし、前者を必至のものと見るのであれば、市民の生活を維持するための地方自治体のさまざまな独自の施策(飲食店とタクシー業者の窮状を救うための施策として、テークアウトをタクシー業者が請け負うなどの仕組み;各地で実施されるようになってきているが、下関の事例として「ごちそう宅シー」がある)も含めて現場の努力を正当に評価することを困難にし、それこそ、危機対応論争において不用意に政局論争を持ち込んだと言われかねないのではないでしょうか。「主観的願望が客観的情勢判断を代行する」ことがあってはならない、というのは立場を問わず当てはまる原則のはずです。

総じて、政府の「ここまでの」対応が不十分だったというのはその通りでしょう。しかし、成功事例や対案を受けいれず自己の正当性のみを主張するばかりではなく、ここに至って民意を汲んで修正する気配もあります(給付金など)。もちろん、「世界最大規模」とみずから謳いながら実際の「真水」部分は貧弱と評される緊急経済対策や、医療体制の充実においても、不満と不安は高まる一方ですが、まだまだ間に合う部分もあります。というより、政権の体質の是非に関わりなく、それこそ民意によって政権を突き上げてでも、間に合わせなければなりません。

政治休戦を主張すると叩かれる風潮が広がっているようですが、それはそれで収拾のつかない事態を招きます。ここはあくまでも冷静に、「成功事例」と「対案」を汲みながら徹底的に議論を積み重ねて、感染抑制・患者治療・市民生活維持のための最善の施策を打ち出していく必要があります。