明治維新の思想(12)

和辻哲郎『日本倫理思想史』第五篇第七章(「町人道徳と町人哲学」)、および第六篇第二章後半(「明治時代の倫理思想」)のまとめを掲載します。

 【第五篇第七章】

 まずは町人道徳について。町人の勃興は、江戸時代の武士階級と同じ時期であり、城下町や港町が形成され始めた頃は土一揆も旺盛だった。武士がその力と才能を自由に伸ばして、在来の因襲を無意味なものたらしめたように、新しい町人も自由に才能を伸ばし始めた。信長が安土の町を作るに際して楽市楽座の標語を掲げたのは、この大勢を公認したものだ。町々の勃興と町人の活躍が豪華な安土桃山時代の文化となって現れた。その頃を絶頂として、民衆の力は突如停止された。秀吉は民衆の武装解除を徹底的に強行し、下克上の大勢は打ち切られた。家康はこの政策を巧みに襲用し、武士を士君子に転じようと努めた。士農工商の別は道徳的な支柱の上に立てられた。

 十七世紀後半に訪れた元禄文化は、主として町人の作り出したものだった。政治以外において武士階級の功績に属するものはほとんどなく、芸術の領域の創造的なものはことごとく町人的であった。十七世紀の平和な時代が続いていくに従い、戦争を遠ざかった武士の生活が弛緩するに反比例して、経済的に活動する町人の生活は緊張していった。町人的財産の力、金銀の威勢が、経済に疎い武士たちの生活を抑え始めた。十七世紀後半にはこの形勢はすでに確立していた。延宝元禄の頃にはもはや掴み取り的な町人の活躍が静まって、資本が資本を産むという経済組織に到達している。

 そういう商人の生態を活写した「日本永代蔵」や「世間胸算用」を井原西鶴が書き残した。これらは町人独特の生き方を説いているが、町人の人としての行為を論じているとは言えないものだった。武士階級の立てた道徳的価値標準に従順でなくてはならなかったため、町人が身分の高さを獲得することはなかった。

 十八世紀初め、町人の立場で行為の仕方を反省する傾向が顕著になっていく。三井高房は「町人考見録」を記し、家職家業への忠実が町人の心得の最も重要なものとして説いた。

 次に町人哲学について。ここで重要となる人物が石田梅巖である。梅巖は「都鄙問答」、「斉家論」を記し、また町人相手の講釈を初め、町人的体験に基づいた町人哲学を展開していった。高房も梅巖も共通して、町人に最も重要な心がけは「倹約」と説いた。しかし、倹約は究極の原理としては不適当と考えられ、梅巖はさらに「正直」が重要だと説いた。その中でも「清潔にして正直」であることが全ての根本であるとした。梅巖の弟子である手島堵庵は、心学の運動を盛大にならしめ、またこの運動を心学と自称し始めた。中沢道二は心学を上流武士の間で広げ、心学者の道話の伝統の一つを作った。これらの人物によって町人哲学は確立され、広まっていった。

(記:岡 寛人 経済学科3年)

【第六篇第二章後半】

 第2章の後半では、思想史の変遷について述べられている。福沢諭吉についての続きから述べていく。

 福沢は、国学者祭政一致論を「虚威に惑溺したる妄誕」と痛撃した。学問のすすめ第15編においてこの種の惑溺がいかに国体の護持に有害であるかを論じた。この時、特に西洋の風習に対する無批判な心酔に対して攻撃の主力を集中しており、国粋主義者よりも欧化主義者の方が論難の的となっていた。この当時は明六社の思想が啓蒙思想の中心であり、代表として中村敬宇西国立志編』、『自由之理』、西村茂樹『校正万国史略』、加藤弘之『国体新論』、西周『百一新論』等があった。しかし、この中で、西周『百一新論』だけが意味が異なっていた。

 西周は、西洋哲学の輸入紹介に力を尽くした人物であり、その後『百学連環』と題された哲学の講義を始め、そのうちの倫理学を『致知啓蒙』と題し刊行する。ただ、印刷部数はわずか100部ほどであった。西の哲学的啓蒙は自由民権の啓蒙ほど華やかではなかったが、明治8年ごろに哲学、論理学、心理学、倫理学等の西の訳語が定まり、明治10年東京大学の創立とともに公式に採用される。

 その後、明治10年自由民権運動が盛んになる。それにより、条約改正のための欧化運動が起こりだす。一例として、キリスト教の伝道や教育、ダーウィンの進化論、スペンサーの哲学の提唱などであった。思想の上では西村茂樹を先頭に在来の儒教的な道徳思想に対する反省も起こっていた。

 西村は明治8年の時点で修身と治国二途に分かつべきではないと論じる。(西周は論難)その成果が『日本道徳論』であった。

 内容は、第一段に「道徳学は現今日本において何程大切なる者なるか」と題し、維新後の日本における道徳的標準の亡失を論じている。この状態が続いていけば国民の道徳は地に堕ち、日本国の運命も危殆に瀕するであろうとといた。

 第二段は「現今本邦の道徳学は世教にあるべきか、世外教にあるべきか」を論ずる。世外教とは宗教、世教とは儒教や西洋哲学のことである。西洋諸国が宗教によって国民の道徳を維持し、シナが儒教によってそれをなしていることを簡単に認めつつ、しかもそれがそれぞれの国の自然の勢いによるものであって自由に選択したのでないこと、自由に選ぶ場合は宗教によらず、世教によるべきであることを論じた。わが国では仏教と儒教が並び行われていたが、江戸時代において、精神的指導権を握ったのは儒教であった。どちらをとるべきかといえば儒教なのである。しかし、世教はほかに西洋哲学がある。従って問題は儒教か、西洋哲学かということになる。

 第三段はその問題を取り上げている。西洋哲学は非常に精妙な学理を示しており、日本道徳の基礎として採用されるべきと考えられるがまだ日本に入ってから日が浅く、十分に理解されていない。それに反して儒教は理解が広く行き渡っている。そこで、西村は両者の利害損失を考える。儒道の日本道徳の基礎として不適当な点は、1は自然科学的知識に合わない。2は儒道の教えが消極的。3は尊卑に不平等。4は男尊女卑。5は尚古主義。そのほか、孔子を聖人として完全視する態度にも非常に弊害がある。西洋哲学は「理をもって師とし、人をもって師とせざる」とする長所があるが、不適当な点として1は知を論ずるに重くして、行を論ずるに軽いところがある。2は治心の術に欠いている。3は古人の上に出ようと異説を立てることがある。4は学派が多岐にわかれ、それぞれの道徳の原理を異にしている。これではいずれを取って日本道徳の基礎とすべきか容易に判じ難い。ありどころをどこに求めるかは「諸教を採りて之を集成する」ことである。これには一定の主義を持たないといけない。この心理は西村によれば事実にあうか、否かに、よって定められる。

 第4段にこれを実行する方法を論ずる。実行するためには条目を定める必要がある。「第一、我が身を善くし、第二、我家を善くし、第三、我郷里を善くし、第四、我本国を善くし、第五、他国の人民を善くす」という五個条を掲げた。後は実行の方法であるが、西村は協会の設立を唱道し事業の細目をかぞえあげている。第一は「妄論を破す」という仕事、第二は「ろうぞくを矯正す」という仕事、第三は、「防護の法を立つ」、第四は「善事を勧む」、第五は「国民の品質を造る」とした。

 彼の努力は成功したとは言えなかったが、儒教の倫理思想に対する反省や、その意義の再認識を呼び起こした。また、元田永孚の「幼学綱要」より進歩的な意義を担っていたといえる。孝行、忠節、和順、友愛、信義の五倫をはじめ、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲、倹素、忍耐、貞操、廉潔、敏智、剛勇、公平、度量、勉職など20の徳目をかかげ、説明と引用と和漢の例話を添えただけのものであった。西村と比較して努力がなく保守的な態度が目立っていた。

 西村が日本道徳論を刊行してまもなく、明治22年に帝国憲法、23年に教育勅語があらわれる。帝国憲法は西洋の立憲君主制を学び取り、近代的な国民国家に追いつこうとする幕末以来の動きを制度的に完成したものであった。しかしその際に欧化主義への反省や、日本の歴史的特殊性の護持の傾向が強かった。西洋文明の前に力を失ったかに見えた国粋主義がこの憲法に強く色づけられているといえる。

 教育勅語は道徳のことに関して、何か非常に権威ある教え、自由に批議することの出来ない教えとして国民に与えられた。教育勅語は第一段において水戸学風の国体の考えを掲げ、第二段において当時の道徳的常識を反映した道徳の教えを説き、第三段においてこの教えが日本の伝統に合するとともに普遍的に通用し得ることを主張している。単に義勇奉公のみならず、孝行も友愛も和順もすべて「忠良の臣民」たるための契機なのであって、これらの諸得のほかに特に忠節という徳を認めるのではないという点が教育勅語の非常に顕著な特徴である。しかし第一段において、水戸学の思想が述べられている。

 筆者は本論には忠君思想は掲げられていないとして、勅語が忠君思想を排除したものであると考えているが、このわずかな水戸学の思想が恐ろしく強い魔力を発揮し、本論が封建的な忠君思想を排除していることを無効化するという誤解をうみ、教育勅語が封建的な忠君思想を温存したものとして取り扱われるようになった。この解釈には顕著な時代錯誤が含まれていた。

 水戸学風の国体の観念によって「忠君」を国体の精髄と解した人々は、封建的な忠君思想をそのまま天皇尊崇の感情のなかに押し込んでしまった。つまり、天皇尊崇の伝統と封建制の強化に用いた忠君思想の伝統との混淆である。

 この混淆に反抗の態度を示したのは内村鑑三をはじめとして、少数のキリスト教信者であった。特に天皇礼拝の形式に反対したのである。これにより井上哲次郎明治25年の末に国体の名においてキリスト教に対する攻撃を開始した。教育勅語を機縁としてこのような論争が起こったのは、ひとつはキリスト教明治10年代を通じて相当広く広まり、20年代には確固とした1つの勢力となっていたからであろうと筆者は仮定している。キリスト教西洋文化を理解するためには必須であった。それは福沢を代表とする啓蒙家たちの開いた道を歩き始めた青年達の理解が福沢と同じ程度にとどまらなくなることとなり、福沢の啓蒙家としての地位を大きく変えたものとなった。「福翁百話」では天皇礼拝の立場に妥協した論を説いており、明治20年代には福沢はもはや、急進派ではなくなった。

 明治20年代に日本の古いものへの関心が再び強まった。ただ、西洋文明を摂取するという大体の方向は変わることはなく、明治30年代において、西洋の学問や思想がいっそう強く摂取される。しかし、国粋主義的な傾向は日清戦争後にかなり高まっていた。国学者神道者が国体を標榜して動き回るのみならず、井上哲次郎高山樗牛、木村鷹太郎、湯本武比古などの新しい学者たちが、日本主義の運動を起こした。これはあらゆる宗教を排し、日本の神話の精神に即した君臣一家忠考無二の道徳をもってこれに代えるためであった。日本主義の問題は忠考の徳に与えた位置、あるいはこれらの徳を手段として達しようとしていた目的にかかっている。そこに封建的な支配秩序を支えようとする特殊の意図があり、それによって、忠考の徳そのものが特殊な色付をもたされているのである。それをそのまま固執し、近代的な国民国家の中に生かし続けようとするのが、いかにも時代錯誤であると筆者は述べている。日本主義の連中がただその中に陥っていたのであった。

 明治40年代、「国民道徳概論」を書くにいたり、明治の末には国民道徳なるものが官僚の手によって教育者の間に押し広められるようになる。道徳の根本的原理は普遍的であるが、それを実行する手段方法は国民によって異なる。国民道徳はその国民が歴史的に作り出した特有の道徳であって、実践の場合にはこれによるほかはない。歴史的に作り出された特有の道徳がそのまま現在の実践の場合に基準として役立つなどという概念は非常な嘘である。それを明確ならしめようと中島力造は、家族の立場での道徳が家族道徳であり、人類の立場での道徳が人類道徳であるように、国民の立場での道徳が国民道徳であると主張した。これは原理の問題であって歴史の問題ではない。わが国特有の国民道徳は、主人の私怨を晴らすために非合法的直接行動をあえてしたものが義士とよばれる時代の忠君と、国民国家における天皇尊崇の態度とが、同じように忠君の概念を持って表示された。それは原理の問題と歴史の問題の二重の混淆である。「国民」についての研究がはなはだ粗漏であったと筆者は述べた。

 明治末には、国民道徳論の混淆や時代錯誤を洗い落とす研究が頭角を現す。倫理思想史の問題を歴史的問題として明らかにする態度が記されている。筆者は結論として、この態度が広く採用されればそれぞれの時代の倫理思想をその時代の社会に即して理解するという方法が勢力を得たなら、それらの倫理思想の中核が的確に把握されるとともに、その時代的な特殊性を考慮せずにそのまま他の時代に当為として通用させる誤謬も犯されずに済んだであろうと主張した。

(記:冨森 大輝 経済学科3年)