コスト高の戦争の持続可能性

「領地を数カ所征服するのに、これほど多大な経済損失を負うのは割に合わない」

これが大半のロシア高官の本音だという。

「大統領はウクライナで勝てると信じている。彼はもちろん負けるわけにはいかない。勝利はわれわれのものだ」

このような意見のエリート層も相当数いるが、この意見に根拠はあるか。

焦点:負けられないプーチン氏、ウクライナで展望なき消耗戦へ | ロイター (reuters.com)

フリードリヒ・マイネッケはかつて、国家存立の基盤となる国家理性(Staatsräson)の構成要素として権力(Kratos)=因果的経緯と倫理(Ethos)=目的論的経緯とを挙げた。マイネッケによれば、「国家理性の目的論的側面に目を向けたならば、〔国家を成立させる〕根源的暴力の背後に潜んでいる価値の世界が明るみに出され、この価値世界が最大限可能な形式へと高まったところでは、権力はもはやそれ自身のために求められることはなく、公共の福祉、すなわち民族共同体の物理的・倫理的・精神的健全さのために不可欠の手段としてのみ求められることになる」(Die Idee der Staatsräson, 1963[3. Auflage], S. 6f.)。

この考えに従えば、「勝利がわれわれのものとなる」ために必要なのは物資と人員だけではなく、戦争の大義、「国家理性(理由)」である。多大な犠牲を払って得られる交戦国双方にとっての「民族共同体の物理的・倫理的・精神的健全さ」はあるのか。端的に、この戦いに「価値」はあるのか。交戦国の為政者とりわけ「侵略者」の側に問われるのは、国際法違反の責任以上に、この戦争を通じていかなる「価値」が実現されるのか(それとも実現されるべき「価値」はそもそも存在せず、単なるむき出しの権力欲Pleonexieだけがあるにすぎないのか)ということである。