フランシス・フクヤマの「理性の狡智」論

フクヤマは『歴史の終わり』(1992年)でつぎのように述べていた。

…人間を「社会性〔社交性〕と非社会性〔非社交性〕の雑居状態」と考えたカントの場合もそうだったが、ヘーゲルも、歴史の進歩は理性の着実な発展からではなく、人間を対立や革命や戦争に導く情念の盲目的な相互作用から生まれると考えた。それが「理性の狡智」というヘーゲルの有名な言葉の意味である。(邦訳上巻、160頁)

権威主義的国家と民主主義的国家の新冷戦」という現状認識にもこの「理性の狡智」を通じての歴史進歩という捉え方が反映されている。

Francis Fukuyama on Putin, Trump and why Ukraine is key to saving liberal democracy | Salon.com

Francis Fukuyama über die Ukraine und den Liberalismus (nzz.ch)

リベラルデモクラシーが左右両陣営によって危機に立たされるなか、制度上の制約に服さない強権的指導者に権力を委ねる右派ポピュリズムの挑戦が顕在化したのが2021年初頭の米国議会乱入事件であり、また今般のウクライナ戦争であるのだという。両者はひとつにつながっているというのがフクヤマの見立てである。

フクヤマの見解においては、戦争をリベラルデモクラシーの覚醒の機縁だとする見方が強くにじみ出ている。この、一人一人の有権者の意向や個人としての政治家の意図をもしのぐ、歴史進歩の有無を言わせぬ過程への信頼においてこそ「歴史の狡智」が典型的に現れている。もっとも、ひかえめに「非社交的社交性」を持ち出したにすぎないカントであれば、その過程における多大な犠牲を歴史進歩のために不可避の手段とするかのような見方には反対するであろう。