【寄稿】SNSにおける言論規制についての公共哲学的考察

 先日の記事(ツイッター社対応へのドイツ市民の反応 - encyclios disciplina (hatenablog.com))に関連する論説を紹介します。

 筆者は井後智陽(いご・ともや)さん(経済学科3年)です。

 以下の論説は現段階ではラフ・スケッチのような位置づけになると思われます。今後、文献調査、現状把握、および(とりわけ「思想・討論」と「行為」、「自己に関するもの」と「他者に関するもの」の相違などに関して)さらなる考察を深めることで本格的な論文に発展させることを期待します。

 

 SNSにおける言論の自由への規制についての公共哲学的考察

   ――カントとミルの言論自由論を参考に――

            井後智陽(経済学科3年)

 

 初めに、カントの考える言論の自由とは、人間が有する不可侵、不可譲の権利の一つであり国家市民にとっての最重要の権利であるとされている。これは、カントの考える人格の尊厳を基盤に持つものであり、前提としての定言命法により絶対的に保障されるべき基本権であるとされている。しかしカントは、自由な言論を行う際の理性の使用について、二種類の理性の使用を考えている。一つ目は理性の私的な使用である。これは自らの所属する集団の意向に従うものであり、完全に自由な使用ではない。所属する集団全体の利益の実現という目的のために、その集団の意向に支配された理性の使用である。そのため、この点において、カントは自由の実現とは別に、服従の義務の存在も重要視している。二つ目に理性の公共的な使用がある。これは、自らを一人の学識あるものとした公衆全体に対する理性の使用である。この使用は、私的な使用とは異なり絶対的に自由なものであり、支配、制限されることのないものである。加えて、カントは服従の義務にも見られる通り、革命を良しとしておらず、集団の変革のためには、民衆に対し理性の公共的使用を通じたことによる民衆の判断による改革でなければならないと考えた。そのため、公衆、公共に対する言論の自由は、制限されてはならない人間の基本権である。

 次に、ミルの考える言論の自由とは、人類全体の利益であるとされている。ミルによれば、人類が真理を求めるにあたって、ある一つの意見が自由な言論の中で論駁されていないならば、当面、その意見が真理であると推定することができる。しかし、言論の自由の規制によりある意見の論駁を禁じその意見を真理であるとすることは、その意見の無謬性を仮定することとなってしまう。人間は全知全能ではなく可謬性をもつため、言論の自由の制限により自由な論駁を禁じ、ある意見の無謬性を仮定することは、真理の追究への障害となる。このため、他の意見を沈黙させ、論駁の機会を奪う言論規制は、真理という人類の利益を追い求める際の障害になるため許されないとした。言論の自由は真理を求める際に必要不可欠なものであり、人類全体の利益であると考えられた。しかし、同時にミルは危害原則に基づく自由の規制を認めている。ミルはパターナリズムを強く批判しており個人への干渉を良しとしていない。しかし例外として、自己防衛と他の成員への害の防止という目的による干渉は認めている。そのため、言論の自由に関しても、他の成員への害の防止という目的に限り言論の自由への規制を認めていると推定できる。

 ここまでのカント、ミル、それぞれの見解をもとに、現代のSNSの表現の規制に関して考えてみたい。まず、カントの言論自由論に即して考えてみれば表現の規制は許されるものではないだろう。インターネット、SNSという空間の構成員、利用者は特定の団体に所属していないという点において、SNSの空間はカントの言う公共に当たる。そのため理性の公共的使用に基づき、言論の自由は規制されてはならない。また、この「公共」はミルの言う「人類全体」とも一致するため、カントと同様、基本的に規制は許されるものではないだろう。しかし、ミルの言論自由論によれば唯一他の成員への危害の防止という目的のための規制ならば許されるということになる。この、他の成員への危害を防止すること、成員を他の成員の危害から守ることを目的とした規制は、唯一納得のできる言論の自由の規制ではあるだろう。

 しかし、この「他の構成員への危害」を誰が判断するのかという問題が生じる。もちろん、同じ国の成員間の問題であればその国の司法が判断すれば十分であろう。しかし、インターネットという国境のない空間において生じる問題は、必ずしも同じ国の成員間であるとは限らない。この場合、最も簡単なのはそのSNSのサービスを提供する企業が判断することであろう。しかし、企業という団体が判断することを良しとしてしまえば、そのSNS内の空間が、SNSのサービスを提供する企業という団体の「私的」な領域に含まれてしまうと考える。そうなれば、当該SNS空間において、「理性の私的使用」が適用され、ガイドライン等の団体の意向に支配されてしまうだろう。

 例えばこのSNSが、世界に影響をほとんど与えないほどに小さなものだったならば、SNS空間を私的な領域に含めることは問題ないだろう。しかし、実際問題としていくつかのSNSは、公共と同一視しても問題ないほどに巨大な影響力を及ぼすものとなっている。

 ならば、SNSにおける表現の自由の規制、他の成員への危害の判断、は、成員により行われるべきである。例えば、SNS利用者が、他への危害と判断した際の通報システムといったように。また同時に、企業の私的な空間と、公共とほとんど変わらなくなったSNS空間を混同させないためのルール作りが必要である。もちろんその企業がその空間を提供する以上、完全に干渉を禁止することは不可能であろう。そこで例えば立憲君主制憲法のように、企業の恣意的干渉を規制するルールが必要であると考える。そしてこのルールは、国際法のように国境に依らず、国籍を越えて展開する企業全てに作用するものでなければならないだろう。