穏健派と過激派

前回記事の筆者、八幡和郎氏の興味深い見解。

 長州は大陸に近く、元寇 など、中国や朝鮮の脅威にさらされたり、逆に大陸に攻めていった記憶をもつがゆえに、アジアに対して東日本の人たちより能動的であらざるを得ない。同時に、長州人は現実的でもあり、なかでも 山縣〔有朋〕ほど対外戦争や外交において思慮深い指導者はいなかった。それは、彼が奇兵隊を率いていたときから一貫していた。

 また、山縣は原敬に対して、徴兵制の論理的帰結として普通選挙があることを認めている。ただ、彼は政党の党利党略に国政が振り回されることを嫌い、それを抑制しようとしていただけだ。山縣は政党政治家のなかにタカ派 や過激論者がいることも警戒していた。第一次大戦中に、対華要求二一カ条というバカげた要求を出した内閣の首班は、自由民権運動の雄で、政党政治家の大隈重信だったのだ。

(八幡和郎. 日本を超一流国にする 長州変革のDNA (双葉新書) (Kindle の位置No.2004-2011). 株式会社 双葉社. Kindle 版.) 

山縣死後、「重石」のなくなった軍部が、反長州閥を中心とする過激派を抑えられなくなったとの見解である。