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全人的教養を目指すゼミ@下関の活動報告です

明治維新の思想(2)

4/16のゼミⅠメモです。とくに市井の「原則」について。

 「おのおのの人間が、自分の責任を問われる必要のない事柄から、さまざまな苦痛を受ける度合いを減らさねばならない」

市井三郎はこの原則を「タテマエとして容認」したことが、市民革命による進歩の内容であるとしています(25頁)。やや分かりにくい表現ですが、言いかえるなら、もしある人が不利益、苦痛を被っているとするならば、それはなんらかの仕方で本人が個人としての責任のもとで行ったことに由来するのでなければならない、ということです。それは同時に、身分や出自といった偶然の、本人にはいかんともしがたい状況によって人の運命を左右されされることのない社会をつくろう、ということでもあります。職業選択の自由や宗教的・人種的差別の撤廃といった方策がこの考え方から導き出されます。

これが「タテマエ」だというのは、実際には市民革命以後も身分制社会は何らかの仕方で残ったこと、あるいは身分にかわって(ブルジョアプロレタリアートといった)「階級」が登場し、自由かつ平等な社会は実質的には実現されていない、ということを念頭においているのでしょう。

ここで目指されているのは、自己責任に基づく社会です。ジョン・ロールズもまた、『正義論』において、社会的偶然(身分・地位)および自然的偶然(天分)が極力、個人の処遇に影響を与えないことを求めています。他方、ロールズのこの考えはまずはスタートラインを、そしてでき得るかぎりゴール(結果、というよりは成果)も平等にするということも目指しており、単純に自己責任に基づく業績主義社会・格差社会で事足れりとする考え方ではありません。ロールズ自身も述べていることですが、「格差原理」(最も不遇な立場にある人の状況を改善する限りでの不平等の是認)は、有能で高い業績を上げることのできる人がその成果を独占しないで広く共有すること、すなわち「友愛」や「連帯」の原理を含んでいるのです。

封建社会は身分間の相互依存に基づく社会です。これが近代市民社会においては個人の自立・自律にとってかわります。問題は、前者で無意識のうちに保持されていたと考えられる連帯の考え方や制度が、後者でどう生かされるか、ということです。「自己責任」が近代社会の原則ですが、これが連帯や相互扶助の排除につながるのは望ましくないでしょう。

連帯や相互扶助は当然必要であるとしても、ではこれを具体的に担うのは誰(何)なのでしょうか。家族や友人など私的な人間関係なのでしょうか、それとも国家や行政機関なのでしょうか。この問いから、福祉国家を将来的にどうするか、という課題も出てきます。子育てをめぐって家族の自己責任および伝統的な倫理観を重視する考え方と、国家による子育て支援を重視する考え方との対立には、自由と連帯のいずれを重視するか、という観点の違いが(ややねじれた形で)反映されています。